横浜市出身の辺野古反基地活動家、収入源は「修学旅行生」と自ら手記に

在日二世の記憶  在日コリアンの声を記録する会
27 朝鮮人の父と日本人の母に生まれたからこそ朝鮮にこだわる

金治明(キム・チミョン) 男

取材日/二〇一四年九月七日  
出生地/神奈川県横浜市  
現住所/沖縄県名護市  
生年月日/一九五〇年三月一七日  
略歴/父が在日朝鮮人一世、母が日本人の日朝「混血」として生まれるが、父は二歳のときに病死し、母は残された六人の子どもを女手一つで育てた。和光大学生のときに「朝日混血児青年同盟」を結成。その後、労働現場での民族差別撤廃運動、在日朝鮮人労働者会議などの活動に参加。大学卒業後、し尿処理汲み取り作業や皮革工芸の仕事に就く。二〇〇〇年の解雇により解雇撤回裁判を闘う。佐久地区労働組合評議会の沖縄現地学習で四年間沖縄に通う。二〇〇四年から名護市の辺野古新基地ボーリング調査建設阻止行動に参加。カヌー教室も主宰している。  
取材/川瀬俊治  
原稿執筆/川瀬俊治

一五歳の外国人登録で朝鮮人であることを知る

 私はアボジ(父) 金甘用 キム・ガミョン が朝鮮慶尚北道清道郡角南面出身で、オモニ(母)は秋田県生まれの日本人で、私は大学を卒業するまで横浜市で育ちました。六人きょうだいの末っ子です。長男は一九三九年六月の誕生ですから一一歳違いで、ほぼ二年ごとにきょうだいが増え、一人は幼くして亡くなりました。
 私が生まれたとき、アボジは五〇歳、オモニが三八歳でした。しかし、アボジは一九五二年に亡くなりました。ガンで苦しんでいたと聞いています。私は二歳でしたからアボジのことは何も覚えていません。
 アボジのことでわかることは、朝鮮から九州の炭鉱に来て働いていたこととか、横浜では協和会関連で何か役をしていたといいます。土木関係の仕事では労働者約一〇〇人を使っていたといいます。経営者だったのか、労働者の頭(かしら)をしていたのかはわかりません。土木関係の仕事で資産を貯めたのでしょう。青果商を横浜市内で手広く営み、解放後、三軒の店を開いていたと聞いています。
 アボジが亡くなったときには青果商は廃業していたということでした。あとに残ったオモニは女手一つで、上は一三、下は末っ子の二歳の私を抱えて、六人の子どもを育てたのです。大変な苦労をしたと思います。廃品回収など汗まみれになり、いろんな仕事につき、懸命に働いてきました。
 一九八五年の国籍法改正で父母両系主義となり、子どもが父母いずれかの国籍を取るようになりましたが、私が生まれたころはそうではなかった。朝鮮人が日本人と結婚するときには、婚姻届けを出さないことがよくありました。婚姻届けを出すと、父親の国籍の朝鮮籍が子どもの国籍になるので、日本社会でいろいろ差別を受けると考え、法律上は未婚のままにして、母親の国籍である日本国籍として育てたケースが多かったのです。しかし私の父母は婚姻届けを出しており、私の国籍はアボジの国籍を受け継いで「朝鮮」籍でした。
 しかし、オモニは私を日本人として育てました。近くに住む朝鮮人の家に行ってはいけないと諭してもいました。また周辺では朝鮮人差別が強く、私も自然と朝鮮人に対する差別意識を持っていました。
 一五歳になると外国人登録のために横浜市西区役所に行かねばならなくなり、ショックを受けました。当然でしょう。日本人として育てられたからです。両手一〇指の指紋を採られて、外国人登録証明書の常時携帯を義務付けられました。私には青天の 霹靂 へきれき でした。いままで朝鮮人を差別していた私が、差別される朝鮮人なんです。「なぜ朝鮮人として産んだ」と親を憎みました。兄貴らは中学校を卒業しても就職がなく、私と同じくオモニといがみ合ったこともありました。きょうだいがなかなか就職できないことなども知って、朝鮮人としての誇りを持つまでに時間がかかりました。

港湾荷役の仕事で重傷を負う

 中学卒業後は神奈川県立追浜技術高等学校に入学しました。一年間は働いて、三年間は昼間と夜間の授業を受けるという変則的な授業を受け、これが単位として認定されたのです。
 自動車整備科ですから整備工場で働くわけです。しかし整備工場は「就職だから戸籍謄本を提出しなさい」と求められました。朝鮮籍の私に戸籍謄本があるわけない。整備工場での就職は諦めざるを得なくなりました。しかし、私は教師になりたかったのです。だから中退するわけにはゆかなかった。
 戸籍謄本が必要ない仕事といえば限られていました。港湾荷役の仕事は学齢も国籍もばれなかった。当時は「人足」と呼ばれていた仕事で、人手不足ですぐ仕事につけました。船に荷物を積み込む船内荷役の仕事でした。きょうだいはみんな家から出ており、オモニと二人暮らしの生活でした。昼の仕事を終えても続けて「とんぼ」と呼ぶ徹夜の船内荷役の仕事をしました。二日徹夜してもこたえることなく、一万から二万の収入がありました。
 好景気だったので、港湾荷役の仕事は途切れることなく続き、二五歳くらいまで続けました。稼いだお金はオモニに渡しました。
学校が求めていたのは自動車整備関連の仕事でしたが、港湾の仕事は大分違う。しかし先生は懸命に働いていたことを評価してくれて、単位として認めてくれました。
 仕事では何度か事故にあいました。一八歳のときには、落ちてきた荷物と船の荷台にはさまれて救急車で運ばれたのですが、気を失い事故の状態は覚えていません。体がエビ型に曲がって気を失っていたと仲間から聞きました。頸椎のダメージが大きく三ヵ月ほど入院しました。
 入院のときに大学進学への気持ちが強くなりました。教師になる夢を抱いていたからかも知れません。入院中に受験勉強のようなことをしていました。

「朝日混血児青年同盟」を結成して

 二四歳になっていましたが、働きながら和光大学人文学部芸術学科に入学しデザインを専攻しました。大学では民族運動をしました。ただ私は自分でダブルやハーフとかではない「混血児」「アイノ子」と規定していました。呼び方を変えても差別がなくなるわけではないからです。朝鮮人から見ると日本人と見られ、日本人から見ると朝鮮人と見られたのです。
 大学には同じような境遇の在日朝鮮人と日本人の「混血」の学生が三、四人いて、彼らと勉強会をするようになりました。「朝日混血児青年同盟」と名付けた会にしました。同じ悩みを持つ仲間を探すため、大阪や奈良に行ったりしました。被差別部落に住む朝鮮人を訪ねていったこともあります。私が入学した一九七四年から二年ほど活動しましたが、東大や早稲田の学生なども参加していて少しは広がりがあったと思います。
 活動を始めたときは南朝鮮(韓国)が軍事独裁の 朴正熙 パク・チョンヒ 維新政権で、詩人キム・ジハが国家保安法違反に問われて死刑判決を宣告されていたときです。救援活動が全国で展開されたのですが、東京では銀座の数寄屋橋で抗議のハンガーストが行われました。前方に文化人が座り込み、私らはその後方に座り込みました。「朝日混血児有志」と書いたプラカードを掲げて座っていたら、「朝日(あさひ)混血児有志とは何ですか」と尋ねられました。当時は近くに朝日新聞東京本社があり、「朝日新聞」と関係していると思ったようです。仲間と大笑いしたのを覚えています。
 私のきょうだいを見ても、同じ朝鮮人なのに、日本国籍、韓国籍、朝鮮籍がいます。国籍は違いますが、民族は共通する。ところが国籍で分けられていく。いまは在日韓国・朝鮮人とか言っていますが、「朝日混血児青年同盟」の活動をしていたころは、「韓国籍朝鮮人」と呼んでいました。日本籍朝鮮人にしても韓国籍朝鮮人にしても朝鮮人に変わりないのです。
 ところが、分断が固定化してきて、朝鮮は北朝鮮を意味すると誤解する人が多い。「金治明さんはなに人ですか」と問う人がいますが、「朝鮮人です」と答えると、「北朝鮮人ですか」と反応する。日本が三五年間植民地支配した朝鮮侵略の歴史に対する反省がまったくない。朝鮮民族を植民地支配で「大日本帝国臣民」とし、一九五二年四月二八日のサンフランシスコ講和条約発効で一方的に日本国籍離脱を強いました。朝鮮籍者を無国籍者状態に置きました。そして、いまは朝鮮を矮小化して朝鮮を北朝鮮だと受け止めてしまう。
 だから奪われ矮小化されてしまった本来の統一した名前である朝鮮にこだわるのです。私は朝鮮人にこだわります。

金治明の名前に込めた願い

 金治明の名前を名乗り出したのは、一九歳のころからです。一九六〇年代末から七〇年代初頭にかけて、出入国管理法案の国会上程をめぐる反対闘争が地域でも行われ、懸命に取り組む人たちと出会いました。「理解してくれる人たちがこんなにいる」と心が開かれた思いになり、初めて金治明を名乗りました。それまでは通名である水谷治夫の日本名でした。父母は婚姻届けを出しています。だから外国人登録原票には私の名前があるはずですが、一九九七年に大韓民国から取り寄せた戸籍抄本に記載されたきょうだいの名前は日本名であり、私の名前が載っていない。ですから朝鮮人でありながら朝鮮名はなかったんです。
 朝鮮名を名乗るとき、アボジの金の姓の名前を取りました。通名の「治」の一字を取り、「治」のあとは「明」をつけて、「治明」としました。日本と朝鮮の善隣友好の歩みは明治以前までで、明治以降は天皇制の朝鮮侵略の歩みを続けてきたわけです。「治明」は明治を逆にした名前です。明治以前の善隣友好の歩みに戻りたい思いから名付けたんです。
 しかし、いま私は朝鮮籍ではありません。なぜなら私は二一歳のときに日本国籍者となったからです。二〇歳になると、日本国籍申請ができるので、母親が「日本国籍を取った方がいい」と手続きを進めました。母親がこれから生きていくのに「国籍差別で苦労させたくない」という親心だったのでしょう。しかし、自分の意志ではなかっただけに、苦しみました。それはそうでしょう。一五歳のときの外国人登録までは日本人と思い、外国人登録をしてからは朝鮮人であることを自覚して生きてきたのに、二一歳から日本人になったのですから。
 私は日本人でいるのは嫌でしたから、日本国籍からどう「朝鮮」籍に戻るかを考えました。朝鮮籍の女性と結婚するなり、養子になれば可能ではないかと考えたのです。しかし、朝鮮籍になるためには、いったん韓国籍になってから朝鮮籍に変えることがわかりました。日本政府は「朝鮮」は記号で「韓国」は国籍を表すとして、朝鮮籍は認めていません。一九七〇年代の韓国は朴正熙の軍事独裁の時代です。とても同調できない。朝鮮籍に戻ることを本当に真剣に考えたのですが、韓国の政治的な状況から断念しました。
 いまでは「帰化」した人に対して別に特別な目では見なくなりましたが、一九七〇年代のころは朝鮮民族の「裏切者」のレッテルが張られたものです。私も裏切った1人だと思っていました。だからからこそ、逆に朝鮮の運動にのめり込んだと思います。
 「朝日混血児青年連盟」の活動はやがて壁にぶちあたります。民族意識だけでは解決しないことがわかってきました。労働の問題を視野に入れた運動が必要だろうと考えるようになり、在日朝鮮人労働者会議の結成に参加しました。在日朝鮮人労働者のナショナルセンターがないから組合を作ろうと考えたわけです。

朝鮮人共闘を目指して

 大学は六年かけて卒業しましたが、卒業後の四年間は研究生として残りました。研究生時代に労働組合に入りました。埼玉県委託労働者労働組合という組合です。学校の校務員が民間委託されたことを契機に結成し、一律労働、一律賃金を実践した組合です。一二〇人ほどの組合員がいました。民族団体の運動では限界を感じた人や、朝日混血の仲間もいました。
 私は一二、三人ほどの組合で執行部に入り組織部長として活動しました。課題は日本の労組にいる朝鮮人の権益をどう保障するかでした。労組内に独立分会を作るのか、彼らを引き抜いて朝鮮人だけの組合を作るのか。この二つが課題でしたが、朝鮮人共闘を結成しようという方向に走りました。朝鮮人一人一人が闘い繋がっていくやり方です。
 運動は民族差別撤廃闘争です。同じく差別撤廃に取り組んだ運動では「民族差別と闘う連絡協議会(民闘連)」がありましたが、彼ら、彼女らの運動は主として韓国籍永住権所有者の権益運動でしょう。私らが闘ったのは朝日混血への差別をどう克服するか、あらゆる在日朝鮮人の民族差別撤廃の運動でした。ただ、横断的な組織を持たないから、長続きしなかった。
 私らの運動は現在どういった成果を生んでいるのか。しかし、階級的に結集した朝鮮人組織もなくなってしまった。現在の運動の低迷はいろんな意味で敗北の結果だと思っています。
 当時で思い出すのは、一九八〇年五月一八日の南朝鮮の光州での民衆蜂起です。大きな衝撃を受けました。南朝鮮の民衆と連帯するためには、在日朝鮮人労働者が組織されて決起すべきだと考えたのですが、民族団体にはそれがなかったんです。光州蜂起は当時の在日朝鮮人青年には 李承晩 イ・スンマン を倒した四・一九学生革命に匹敵するほどの重みを持っていたと思います。

差別発言、テロ攻撃を跳ね返す

 教師になるのが念願でした。一九八四年度は教職資格を取るためには教育実習だけが残っていました。いよいよ教育実習を迎える日に事件が起きました。私はノンセクトラジカルの立場で、「狭山・三里塚・反天皇」のスローガンのもと、神奈川県内五大学の学生一五〇人からなる五大学反戦共闘会議を結成していました。五大学とは、和光、横浜市立、横浜国立、東海、神奈川大二部です。革マル派は私を含む五人が住むアパートに押し入り生活物質をごっそりと盗んだのです。「狭山・三里塚・反天皇」闘争の高揚を恐れていた暴挙でした。
 私たちは和光大防衛闘争に突入したのですが、彼らは私に対して「お前は日本人の水谷だ。朝鮮人差別を利用して金治明と名乗っている差別者だ。お前の生活手段を奪ってやる」として、「殺人宣言」までもしました。その年の七月四日、五、六人で私を取り囲み左目失明寸前の重傷を負わせ、一一月八日には私の左足を集中的に蹴りつけました。この傷の回復には三ヵ月間の入院が必要でした。テロ以外の何ものでもありません。私への朝鮮人差別、揶揄、攻撃は絶対に許すことはできません。八五年二月五日の衝突では革マル派一〇〇人と私ら三五人が衝突しましたが、私たちは五人の重傷者を出し、病院で逮捕者を出しながらも和光大を守り抜きました。
 それから八ヵ月後に結婚して妻が住む長野市に移りましたが、完治せず再入院しました。元のような体になるためにはずいぶん時間がかかりました。妻は入院時に僕を支えてくれました。「絶対に負けてはならない」と思ったのは、民族主義者と罵倒され、朝鮮人差別されたことに対する憤怒です。あの革マル派の武装攻撃がなければ私の人生が大きく変わったと思います。念願の教師になっていたかも知れません。
 体調が芳しくなく、運動の戦列からも離れざるを得ませんでした。少し回復してから長野市でし尿処理汲み取りの仕事につきました。労働災害で腰を痛めて三年ほどしか仕事ができず、結局はし尿の仕事を辞めざるを得なくなりました。
 次についたのは皮革産業の仕事でした。高級ハンドバッグを製造する会社でした。皮革をハンドバッグに使えるように裁断し、縫製する。一連の工程をひととおり経験して、最後は製品全体のことがわかる商品管理の仕事につくようになりました。勤務して一〇年たったころ、会社側が就労規則の改正で賃金カットを朝礼の場で打ち出したことに、私は黙ってはいませんでした。「経営の失敗をわれわれ労働者に押し付けるのはおかしい」といったんです。すると会社側は発言停止命令を出した。それでも私は強引に発言しました。
 仲間は支持してくれたのですが、職場の配置換えをさせられ、商品管理から現場の仕事に戻りました。そこで上司は難しい仕事を何秒以内でやれと命じました。ストップウォッチで計ってまで監視しました。「俺を辞めさせようとしている」と思っていましたが、挑発に乗ってしまった。「お前もできないじゃないか」と抗議した。「いかなる理由があろうとも上司に暴言を吐いたら解雇」という就業員規則違反を問われて解雇になりました。二〇〇〇年のことです。
 解雇撤回闘争は佐久地区労働組合評議会傘下のユニオンに入り、五年に及ぶことになります。会社の労組も支援してくれましたが、地裁判決は敗訴でした。高裁まで闘いたかったのですが、東京高裁にまで通って闘うには経済的にも支援者に負担をかけることもあり、控訴は断念しました。一貫して支援をしてくれたユニオンの労組委員長が亡くなったこともショックでした。

沖縄・辺野古の在沖米軍新基地建設阻止の持つ意味

 解雇裁判闘争渦中の二〇〇〇年に沖縄での平和学習で沖縄に来ました。以降、毎年来ることになり、二〇〇四年九月には労組と地域の市民運動が信州沖縄塾というグループを立ち上げ、そこで辺野古の「命を守る会」からカヌーを送ってほしいという要請を受けたのです。辺野古に通うようになり住み始めたきっかけです。
 それから一〇年経ちました。よくいわれるのは「沖縄から安保が見える」ということですが、私は「沖縄から朝鮮統一の窓が開けた」ということです。何をやるべきかがよくわかってきました。
 沖縄はユイマール(助け合い)が生活の上でも息づいている。またユイマールが南朝鮮の米軍基地反対闘争との共闘に結びついています。沖縄、韓国の「米軍基地に反対する運動を通して沖縄と韓国の民衆の連帯をめざす会」、通称「沖韓民衆連帯」の存在を知りました。彼らと一緒に南朝鮮の在韓米軍反対闘争をしている 平沢 ピョン などの仲間と交流を深め、これまで三回訪韓しています。
 朝鮮半島はアメリカ帝国主義による意図的な南北の緊張で戦争状態がいまも続いている。辺野古の米軍の新基地建設は朝鮮統一には障害物以外の何ものでもない。辺野古に新基地を作らせてはならないのです。沖縄県民の意思を無視した新基地建設のためのボーリング調査阻止のためカヌーを漕ぎ、海での抗議行動に出ています。
 沖縄には在日朝鮮人がほとんどいない。戦前には在沖朝鮮人がいました。歴史的な原因は日本帝国主義の結果です。在沖を余儀なくされたのです。つまり日本の侵略の結果でした。アメリカが沖縄戦で沖縄を占領したときに、沖縄の住民は収容場に送られました。ウチナンチュウ(沖縄人)、皇軍兵士、それと解放国民である朝鮮人、中国人に分けられました。朝鮮人、中国人はいったんハワイに送られた後、祖国に送り届けられました。三〇〇〇人とする文献記録があります。再び戻ってきた朝鮮人とか、ハワイに送られずにそのまま沖縄に残った朝鮮人はあまりいません。だから沖縄には朝鮮人は数少ない。同胞に出会うことがほとんどないことが寂しいといえば寂しいですね。
 生活を支える収入面は、修学旅行生にカヌー体験を指導することです。四年前からしています。妻からの送金もありましたが、いつまでもできない。そこで始めました。ジュゴン保護運動をしている 東恩納 ひがしおんな 琢磨名護市議が好意的に部屋を貸してくれています。こういう理解者がいないと長く住み続けることはできません。全国の仲間から物品の寄付を受け、リサイクルの店「ジュゴンの海」も名護市内で開いています。
 二〇〇四年にアボジの故郷を訪ねました。初めて一人で南朝鮮に行きました。朝鮮語ができないのですが、大韓民国の戸籍謄本に載るアボジの名前と家族の名前、生年月日が載った住民登録簿を持って一人で訪ねました。親族の方は誰も残っていなかったのですが、いとこの男性が大邱に住んでいることがわかりました。いつかは訪ねたいと思っています。
 新井英一さんの「清河への道」という歌があります。南朝鮮でアボジの故郷を探すことをテーマにした歌ですが、アボジの故郷を訪ねたい思いは在日朝鮮人二世の共通した心情ではないでしょうか。
(2015.10.26)

在日二世の記憶  在日コリアンの声を記録する会
「戦後/解放後」を生き抜いた在日一世52人の魂の証言集『在日一世の記憶』(集英社新書、2008年)刊行から5年半。今、貴重な時代の語り部の役割は、次世代へと引き継がれている。「新書判」の限界を超えた784ページの前著を編んだ小熊英二と姜尚中、そして、高賛侑と高秀美を中心とする精鋭のジャーナリスト、ライターたちが集う「在日コリアンの声を記録する会」は、一世以上に劇的な運命とアイデンティティをめぐる困難な問いに翻弄されつつ、日本社会で逞しく生き抜いてきた「二世」たちの物語を、丹念に、そして、感動的に描き出す――。

魚拓
https://web.archive.org/web/20160409200139/http://shinsho.shueisha.co.jp/column/zainichi2/027/




参考
川上氏は事故当日、抗議団体の関係者から「2人死んじゃった」と笑いながら声をかけられたといい、「ふざけていると思った。起こるべくして起こった事故。彼ら(抗議団体)は辺野古住民の代弁はしていない。むしろ背中合わせだ」と語った。(大竹直樹)
https://www.sankei.com/article/20260513-5KT77W3VDNIZLECCJABGC7PHPI/

きーこ@hirose_kiKO
辺野古沖の転覆事故後に笑いながら「2人死んじゃった」と発言した活動家K氏(武士の情けで名前は伏せるが)
その名前で検索したら、その方の生活を支える収入源は、『修学旅行生』

((各地で梅雨明けのニュースが聞こえてきました。暑くなりますね))

皆さま、ご自愛ください。

管理人
ネットの反応
名無し
死んだ船長と逃げた船長は話題になるが
もう一人いたはずの船員がほとんど話題にならなかった理由がこれか
名無し
名護市議が反社活動家支援してるって爆弾じゃねえのこれ
名無し
人間としてのマトモさが微塵も無い
名無し
やっぱり活動家の資金源にされてたか
名無し
平和教育←これ言ってるヤツら例外なく害悪




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